こんばんは。。

Soraです。

第二外国語を学んでいる方が多くいるのが、😄の特徴の一つであるように感じます。ボクが普段感じている悩みに対して、投稿することによって皆様からの知見が得られるのではないかと思い、普段、紙上に書いている日記をパソコンに起こしてみました。長文、乱文失礼します。

先日、友達から英語を勉強していて、一番良かったことは?と聞かれ、日本語(普段扱っている言葉に関して)について考えるようになったこと(真顔)、と答えるとポカーンとされてしまいました。

-言葉との馴れ初め-

言葉に関して、敏感になった背景からお話します。意識し始めたのは、大学生になってデザインの勉強を始めたのがきっかけであると思います。私が所属していた建築学科では、マイターム設計課題が課され、教授と学生たちと議論を重ねながらデザインの深度を高めていくことを目指します。外部の人(高校時代の友達)からは、デザインの学部に所属していた私の活動イメージは、絵を描きながら(小学生時の)図工の時間のように自由に模型を作っているのではないかと思われていました。(あながち、間違いではありませんが。)実際には、言葉による試行錯誤がとても重要な役割をになっています。

-デザインと言葉-

設計、建築デザインにおいて、1つの価値基準は、(自身でさえ)掴むことが出来ていない世界、わからない世界を開拓していくことが求められていています。言葉とスケッチによって、自分自身を遠くに投げる感覚です。まず、自分自身を言葉によって、遠くに投げてみる。できる限り遠くに。言葉の着地点がどこにあるかもわからないながらも、とりあえず投げ出してみます。そこから、この作ってみた言葉の世界は、こういうものなのでは?という断片的なスケッチを用いて膨らましていきます。その後、言葉によって論理的に組み立てていく作業を行います。これは、言葉によって曖昧に作られた世界を、今度は言葉によってその不透明性の所以を解いていく作業です。時には、スケッチの力を借りながら。スケッチ→言葉→スケッチ→言葉の横断を図っていきます。(例えば、『懐かしい未来』をキーワードとする建物の設計を掲げたとします。本来であれば、そのような体験がないことは言うまでもないことですが、空間の実現に向かって、スケッチを重ね、『』を感じられる重要なデザイン要素、壁、床をはじめとする空間のイメージを構築していくようなイメージです。それぞれの要素が大事な部分を言葉によって補足しながら設計を進めていきます。)毎週の発表会では、大半の生徒が教授によって『君のスケッチと言葉の意図がわかりません』と罵られ、発表後生徒同士励まし合い、時には(いや毎回)教授への愚痴をこぼしながら作業を進めていきます。(人格者である教授の方々もいることは断っておきます。)

このような学習を続けていると、オリジナリティのある言葉に対して、敏感にならざるをえません。他の生徒と平行して作品を比べられることも多くなるので、自分の殻を破るまでに至っていない言葉との格闘や、今までの世界によって形作られた言葉をなぞる形でしか、自身の思考回路が形成されていないという自責の念が大きくなります。誰かが、作り上げたルールの中で、転がされていることに対して、敏感でありたい、抜け出したい、と考えるようになりました。ボクらにはボクらにしかできないデザインが在り、ボクらにはボクらにしか感じられない世界があるのだから、自分が見ているもの、考えていること、感じていることに対して、自分のやり方で『チューニングを合わせたい』、『解像度をあげたい』という考えが芽生えてきます。

一方で、ある種の諦めも感じています。言葉はとても抽象的なものですよね。でも、ボクらが思い描くデザイン像、抱える感情、体が感じる微細な感覚はとても具体的な形式をとりながらこちらに向かってきます。言葉と想像すべき像との間の差異に苦しめられる大学の4年間でした。うまく言い表すことができないことを受け入れつつ、時には言い淀みながらも、言葉以外の非言語手段によって補うことが、言葉と向き合う上で、1つ大事な要素であると思うようになりました。ボクの専門分野の場合、それはスケッチやCG、模型表現であり、日常生活の場合、表情や体のふれあいによるものなのかと感じます。

-英語を学ぶこと-

言語について考えるとき、英語がもたらしてくれた効用がとても助けになります。英語を通じて、自身の日本語を客観視できるからです。ボク自身の日本語能力の危うさ、低能さに対して自覚的になったのは、英語学習を始めたことが大きいです。母語の日本語に対して、日常的に過ぎさるものとして、疑う機会が極めて少なかったのです。英語を学ぶ過程で、新しい視点を与えてくれました。いくらかの感情表現も表すことができない段階から次第に自分の英語の言語世界を広げていく感覚が英語学習にはありました。さまざまな英語による映画や小説、音楽を通して、自分自身の世界が豊かになっていく過程を身にしみて感じることができたのでした。その一方、母国語である日本語に関してのそういった勉強や感情を表そうとすることに関しては、自身が受けてきた教育で授けられた能力に甘んじていたところがありました。ボク自身は、日本で生まれ、日本で育ったアイデンティを持っているので、自分自身の思考が日本語という言語と深く関連していることは言うまでもありません。その思考に関連している、重要な役割を担っている言語に関して、考えてこなかったことは、思考することに関して怠けた態度をとっていたことになると思うのです。ルーティン化してしまっている日常の言語活動に対して、外部からの視点を得ることができたという意味で、英語学習を始めたことは、とても大きなことでした。

ー言語学習でムカつくことー

外国語の勉強をしていると、往々にしてイラつくことが在ります。ボクだけかもしれません。特に慣用句などの定型表現に関しては思うことがあります。例えば、spill the beansという口が軽い、情報を漏洩させるという表現があります。イギリス人が発しているのを初めて聞いた時、豆と芋ばかり食べているイギリス人らしさが前面に出ているなぁと思いました。(実際にはギリシャのお話からきているので、ここからのお話は空論です。)このような表現と出会った時、ボクは日本人なので、spill Nattoと言わせてほしいと思ってしまいます。だって、ボク、ふだんあの豆料理、食べないもん、って。わかっています。そもそも言語学習はその国特有の文化に触れることでもあるのだから虚しい言い分は控えなさい、文化交流に関してのマナーや礼儀に欠けている、といった常識に基づく反対意見があちこちから聞こえてきそうです。でも、そう思ってしまうのも仕方ないですよね。だって、食べないんだもん。Nattoの方が好きなんだもん。もっと具体的に言い訳させてもらうならば、両者では『重さ』が違うのです。前者の場合、「またあの芸能人が不倫したらしいよ」くらいの秘密漏洩の感覚ですよね。その一方、、、納豆の場合、納豆は日本人にとっては欠かせないものですからこんな感覚です。小学生の時、親友のみにしか打ち明けていなかった秘密話ーKさんが好きだということにー気づくと、クラス全員が知っている。この時のヒヤヒヤする感覚に重なる表現になりうるのです。

すみません。駄文でした。spill the beansの方を我慢して使います。

-ムカつき2-

普段オンライン英会話をある一人のイギリス人講師に教えてもらっているのですが、その人のブラックユーモアの洗礼を毎授業受けます。30分の授業を受けていると必ず1,2度「Oh! Jinglish! (EnglishとJapaneseを合わせた造語)It’s amazing. what a wonderful invention!』なんて言いながら煽ってきやがるのです。表情までthe britishなのがmukatukimasune。(もちろん冗談です。)外国語学習の難しさを感じる瞬間です。日本語からくる文構造の感覚で話してしまうと、英語ネイティブにとっては、とても違和感のある文が出来上がってしまうみたいです。完璧な英語を話すことを目指しているわけではないのですが、英語習得の壁を感じる瞬間です。

以上、言語に関して思っていることをつらつらと書きました。皆さんと言語とのお話を聞いてみたいです。

sora