今1番夢中になっていること
今1番離れたいと思っていること、について考える。
コトバである。
コトバについて色々と思うことを綴ろうと思う。
違和感
『言語を介さずに意思疎通できるように育てたいかな。』
冗談まじりにつぶやいた彼の表情の奥底には、その言葉が道化からくるものではないということを明確に示していた。
『子供を授かったらどう育てたい?』というボクの問いに対してこんな答えが返ってくるものだからビックリするのも無理はないよね。でもね。今ではその気持ちがほんの少しだけわかる気がするのだ。人一倍言葉に敏感な彼だから生まれる答えだということ。決して人前では言えない意見だけどね。だからこそ、彼がこの愚直な意見をボクに向かって言ってくれたことが嬉しくて、頬が少し緩んだ。
コトバ
言語について考えたい。哲学的なことはわからない。これから学ぶつもり。今抱えているボクの疑問は、前の時代の哲学者がすべて答えているよ、ってキミなら言うんだろうね。ボクはそのことを無視して、自分の頭で考えてみる。
言語を扱うことってどういうことなのだろう? 考えたいのは言語で遊ぶこと。言語そのもので遊ぶこと。伝えるためのコトバにはあまり興味がない。いつの時代も興味があったのは(そんなに生きていないけれど)、どうしたら面白い言い回しになるか、自分のこの感情をどう消化すべきかということだった。テレビの先に映る芸人さんの言葉の取捨選択にはいつも驚かされる。まさに、それがボクの目指している言語における遊びなのだ。
ボクたちは、人生の中で折り合いのつかないことを、笑ってやりすごすことができる。笑いに変えようとする。必ずしも他人に言わないまでも、自分のなかで自分のことを笑うことで、自分というこのどうしようもない存在と付き合っていくことができる。
人生で1番言われて嬉しかったコトバ
『なんでソラのトークは惹きつけられるんだろうね』
友人(それも女の子!)二人組からの言葉。人生で1番嬉しかった言葉。
中学生の頃からラジオっ子。スクールオブロックからはじまり、色々な芸人さんのラジオを聞いた。どのラジオも魅力的だったけれど、とりわけ惹かれたのは、くりーむしちゅーのオールナイトニッポン。回によっては、10回以上聴いてると思う。今でも忘れられない。あの破壊力。今では二人の思考をなぞるかのごとく、二人の発言を予測することができる、という特技を得た。披露する予定はないけどね。面白い言い回しや、ユーモア、オチの持っていき方があったら、すぐに携帯のメモ機能を開いて、メモを取った。仲の良い友達にはすぐ、同じような話し方で話してみたり。言い回しをそのまま拝借させてもらって相手の反応を観察した。その場のノリと空気感によって自分なりのアレンジを付け加えられるようになったりして。それだけで、すごく楽しいのだ。
このような遊びは、ユーモアの話だけにとどまらない。ボクには、地方から東京へやってきた友達がたくさんいる。小学校の時のSさん、中学時代のKくん、M先輩、大学時代のKさん。標準語を話す自分に引け目を感じて、小学生の頃から、方言を話す友達と会話を紡いでは、真似をして、研究した。馬鹿にしてるのか!と怒られたりもした。本人はいたって真面目に、国語の読解問題を解いているかの如く、真剣に取り組んでいるのだが、まさにエセなのだろう。家で、youtubeを開いて関西弁の講座をひっそりと受講していた時もあった。22歳のボクを作っているこうした言語が、こうしたボクの意志によって取り込まれ、編集されたものの集積であるということなのだ。
日本語が嫌いになった時期
日本語が嫌になった時期もある。英語のスコアを海外留学のために取らなければならない時期は本当に辛かった。日本語の考え方にとらわれて出てくる自分の英語が嫌いだった。イギリスの先生はお得意のイギリスジョークで、「Oh! Jinglish! (EnglishとJapaneseを合わせた造語)It’s amazing. what a wonderful invention!』なんて言いながら煽ってきやがる。表情までthe britishなのがmukatuku。どうやったら日本語に縛られないように思考できるか悩んだ時期だった。今では、日本語大好き。自分のアイデンティティも言語と強く結びつきがあると外人さんと話していて思う。言語とはいつまでも友達でいたい。
東直子さんの詩を思ふ。
感情の置き場所だけは奪われぬ言葉はずっとずっと一緒だ
東直子
言葉とは常に離れられないし、言葉が唯一の一生の友達とも言える。言葉と向き合うのはある側面から見ると本当に辛いことかもしれない。それは、物事のほんの少しの断片的な欠片をも取りこぼすまいとする姿勢だから。
好きな女性のタイプ
言語の側面から好きな女性のタイプを考えたみたい。
ちょっと背伸びした言葉が浮いたあの感覚。その感覚を味わった瞬間一気に惹きつけられた、のを今でも覚えている。この人とならば、少し背伸びした自分を見せても恥ずかしくない、という安心感。共感してくれる人いるかな。
小説からも影響は受けている。小説家村上春樹の1番好きなところ。それは村上春樹が描く女性像。所持している小説には、ページの四隅に折り目がついているのだがそれらは、女の子の仕草、言葉尻が大半だ。文体から読み取れる表情、雰囲気。たまらなく愛おしい。
日常でも思い返してしまう時がある。ガールフレンドのコトバがボクが思っていたものと違う軌道で返されてきた時、村上春樹が創ったあの女性なら、どう返球するかと考える。村上の小説は、大枠として伝えたいメッセージが強く感じられるけど、(またそれらは素晴らしいが、)ボクの思う素晴らしさはその細部からくるものな気がする。
まとめ
時たま、言語に縛られてしまっている感覚を覚える時もある。それは自らの語彙の欠如からくるからかもしれない。創造力の欠如からなのかもしれない。言語から離れられたらどれだけ自由になれるだろうかと考えながら、眠りにつくこともある。夢の中では、言語から少しだけ自由に慣れているような、あの感覚が好きなのだ。そのことを体感しながら眠る。一方で、言葉の大切さも身に染みて感じている。自分と向き合う行為も言語を通してだ。他人と向き合うのも言語を通してだ。
また、本当の自分をオープンにできるのは、言語的信頼がある人だけのように思う。自分の言語感覚を受け取ってくる人。言葉の連想ゲーム。言葉を遠くに投げる感覚。それが共有できた時の安心感。
これからも、コトバという魔法で遊びながら生きていきたい。
そら